甲陽鎮撫隊とは? 新選組の結成から解散まで 特命調査「慶応甲府」

最後の特命調査がいよいよ始まります!

幣本丸の初期刀、加州清光の出陣ですよ。

新選組が大好きな審神者として、甲陽鎮部隊と新選組について説明していきます。

うさこ

甲陽鎮撫隊って何?

ひつじ先生

新選組や幕末のことを知らない人に向けて、かいつまんで説明しますね

目次

特命調査「慶応甲府」 甲陽鎮撫隊とは?

甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)

甲州鎮撫(暴動を鎮め民を安心させる)を新選組に命じた際に改めた名前です。

慶応甲府

慶応:日本の元号で1865年から1868年。まさに新選組が活躍した時代です。

甲府:現在の山梨県。武田氏が有名。

事の成り行き

鳥羽・伏見の戦いで敗戦した旧幕府軍の勝海舟は、江戸城無血開城を計画していました。

1868年2月28日。新選組の近藤勇は、幕府直轄領である甲府(甲府城)を新政府軍より先に押さえるよう、勝海舟から命じられます。

江戸幕府が終わることを不満に思っていた新選組はこの提案を受け入れ、新政府軍を迎え撃つことにします。

新選組だけでは数が足りなかったため、弾左衛門(被差別民の頭領)の配下と合流し、甲陽鎮撫隊と名前を改めました。

江戸城無血開城

勝海舟の働きにより、徳川宗家の本拠地を平和的に明け渡し、徳川慶喜は処刑を免れました。
江戸城総攻撃は中止され、江戸の町が戦場になることはありませんでした。

勝海舟の見事な手腕が光るエピソードですが、甲陽鎮撫隊は何のために甲府城に?と思いませんか。
実は、血気盛んな戦闘集団の新選組を江戸から遠ざけるために勝海舟が画策したのではと言われています。

鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)

薩摩・長州が討幕をおし進める中、第15代徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を天皇に返すことになりました。
これを受けて、明治天皇は王政復古の大号令を発し、江戸幕府が廃止され新政府が設立されます。

江戸では薩摩によるテロ行為が頻発、江戸幕府は「討薩表(とうさつのひょう)」(薩摩を討伐するという内容)を掲げ、京都へ向かいます。

伏見街道と鳥羽街道を二手に進む幕府軍を阻止しようと薩摩・長州・土佐が出陣します。
小競り合いの末、薩摩藩が幕府軍に砲撃したことがきっかけで開戦。

薩長軍に「錦の御旗」(朝廷の印)が掲げられたことで、薩長軍は新政府軍(官軍)、旧幕府軍は逆賊となったのです。

この戦いで旧幕府軍は敗北、軍艦で江戸へ退却する。

甲陽鎮部隊の行軍

1868年3月1日、江戸から出発し甲府進撃を開始、目指すは甲府城。

幕府より金500両、大砲2門(準備された6門のうち4門は置いていった)、小銃5000挺を得た甲陽鎮撫隊は甲州街道を進行するわけですが、ここに大きな油断がありました。

  • 新政府軍より甲陽鎮部隊のほうが、甲府城への行程が短く有利であったこと
  • 幕府領だった甲府城に入れば武器などの補給できると考えた(大砲を置いていったのもこれが理由だった)

さらに、豪遊しながらの行軍となり、時間を無駄に浪費してしまいます。
(これにも諸説あり。士気の低い寄せ集めの集団の不満をそらすために豪遊したとも、近藤や土方の故郷である多摩で宴会をしていたとも言われています)

気が付いた時には新政府軍のほうが先に甲府城に近づいており、慌てて進行するも時すでに遅し。
天候悪化で足止めを食らいながら甲府城にたどり着いたのは3月6日。

しかし甲府城への入城はかないませんでした。

早く入城することがこの戦の勝敗を決すると考えた新政府軍・迅衝隊の板垣退助の迅速な行動により、先に甲府城を押さえられていたのです。

板垣退助と甲府城

板垣退助の先祖はかつて武田信虎、信玄親子に仕えた家臣、板垣信方という人物で、武田四天王の一人でした。
このことに甲斐の領民は喜び、新政府軍に協力したといいます。

甲州勝沼の戦い

3月6日、甲陽鎮撫隊と新政府軍は勝沼において交戦します。
増援を呼ぶものの、結局来ることはありませんでした。

さらに数が多く最新式の武器を持ち、錦の旗を掲げた新政府軍に逃げ出す者もいました。

わずか2時間の戦いで敗戦。
甲陽鎮撫隊は八王子まで退却後、解散。散り散りに江戸へ敗走することになりました。

ここで新選組は事実上の解散となってしまうのです。

新選組の隊士たちのその後の足取り

江戸に戻った隊士たちのうち永倉、原田らは隊を離れ、靖兵隊を結成します。

沖田は江戸にて結核で死去。

近藤、土方ら新選組の隊士たちは流山(千葉県)へ行くも、近藤は新政府軍により処刑されることに。

隊士たちは離隊や戦死などで数を減らしていきます。
残りの隊士や土方は会津戦争などを経て蝦夷地へ。

函館戦争で土方が戦死し、新選組はついに降伏。
五稜郭で旧幕府軍も降伏し、鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争は終焉を迎えるのです。

特命調査「慶応甲府」 動画にみる言葉の意味

甲府城江戸時代、甲府城代は「山送り」と呼ばれ左遷扱いだったため、幕府への忠誠心が薄かった
領民たちも幕府を良く思わず、武田の治世を懐かしんでいた
武田家に仕えた板垣信方の子孫である板垣退助の入城を領民たちは歓迎したという
髑髏ヶ崎館
つつじがさきやかた
甲斐の守護、武田氏の所領の中心地にある居館
1590年に甲府城が築城されるとその機能は廃された
四斤山砲
よんきんさんぽう
四斤は砲弾が4kgという意味。
フランスで開発された前装ライフル式の青銅製山砲
幕末に導入され、戊辰戦争などで使用された
近藤勇甲陽鎮撫隊において若年寄(江戸幕府の職のひとつ)に任命され、大久保剛(たけし)と名乗る
甲州勝沼で敗戦後、大久保大和と改名
土方歳三甲陽鎮撫隊において寄合席(江戸幕府の職のひとつ)の任を受け、内藤隼人(はやと)と名乗る
沖田総司途中まで甲陽鎮撫隊と行動を共にするも、病気(結核)のため江戸で療養する
甲州勝沼の戦いには参戦せず
甲府城

新選組の結成から解散まで

出来事だけをかいつまんだ新選組年表です。

14代将軍徳川家茂の上洛(京都へ行くこと)に際し、江戸幕府は警護の目的で浪士を募集する。

近藤勇は土方歳三たち試衛館(道場)仲間と共に応募。
他の道場も合流して「浪士組」という一団を結成。

2月

京都に到着。しかし一部が反幕府派だったため、それに反発した浪士組は江戸に戻ることに。
将軍警護のため、近藤勇ら試衛館組と芹沢鴨率いる水戸派は京都に残る。

3月

試衛館組と水戸派の2つのグループは京都守護職(治安維持・警備)の会津藩・松平容保の承認を得て、「会津藩お預かり」になる。(現代で言うと臨時職員)

京都壬生村に屯所を構え「壬生浪士組」(みぶろうしぐみ)と名乗る。。

会津藩より京都の市中警護を任される。

8月

「八月十八日の政変」の警備に出動、その働きを評価される。
会津藩より「新選組」の名を拝命する。

9月

近藤勇率いる試衛館派は、豪遊や乱暴を働く芹沢鴨をはじめとした水戸派を暗殺。

近藤勇を局長、土方歳三を副長とした新選組の組織が完成する。

6月

池田屋事件」尊王攘夷の志士(長州・土佐)を襲撃。

8月

禁門の変」(蛤御門の変)会津藩と共に制圧に参加する。

9月

池田屋事件と禁門の変の働きで恩賞を下賜される。

隊士を増強。
屯所を壬生から西本願寺へ移転。

6月

隊士全員が会津藩お預かりから幕臣(幕府の臣下)に取り立てられる。

10月

大政奉還

12月

王政復古の大号令

1月

鳥羽・伏見の戦いに旧幕府側として参戦。


旧幕府軍は敗北。
軍艦で江戸へ。

3月

甲陽鎮撫隊と名を改め甲府城で交戦するものの敗北。

新選組は事実上の解散に。

江戸に戻るが、思想の違いなどから離隊する隊士も。

4月

江戸城無血開城

5月

 宇都宮城の戦い

12月~1869年6月

函館戦争

改めて考えると、新選組が活動したのは6年だったんですよね。

これだけ後世に残るということは、そのエピソードがいかに鮮烈なものだったかがよく分かります。

特命調査「慶応甲府」 まとめ

今回のイベントは、新選組末期の出来事がベースになっているようです。

甲陽鎮撫隊を途中離脱した沖田総司の刀である加州清光の出番です。
病気療養のため泣く泣く離脱した沖田総司の想いが切ないなあと思うエピソードでもあります。

色々な見方ができ、それぞれの立場で悪にも善にもなる新選組だからこんなにも魅力的なのでしょうね。
また個性豊かな隊士たちがそれをさらに彩り、今も皆を惹きつけてやまないのかもしれません。

うさこ

新刀剣男士の登場も楽しみです

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