ミュージカル刀剣乱舞「静かの海のパライソ」の題材となっている、島原の乱の歴史と人物についてまとめました。
- 刀剣男士について
- 歴史上の人物について
- 島原の乱
- 天草四郎
- 山田右衛門作
こちらについて史実をまとめています。
※刀ミュのあらすじではありません。
▼ライブ配信はこちらの記事を参考にしてみてください
「静かの海のパライソ」登場人物
島原の乱に関係するところをピックアップしています。
刀剣男士
刀剣男士 | キャスト | 詳細 |
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鶴丸国永 | 岡宮来夢 | 平安時代の刀工、国永の作。 皇室の御物。 仙台藩主である伊達家に代々伝わる。 その後14代藩主より皇室へ献上される。 |
大倶利伽羅 | 牧島輝 | 南北朝時代、広光の作。 徳川家より伊達家が拝領し、伊達家伝来となる。 伊達政宗が好んで帯刀していた。 |
浦島虎徹 | 糸川耀士郎 | 江戸時代、長曽祢興里虎徹の作。 鳥取藩主・池田家に伝来。 池田光仲が所持していたと言われる。 なお、日向正宗の持ち主である 徳川頼宣の娘・茶々姫と池田光仲は結婚してる。 |
日向正宗 | 石橋弘毅 | 鎌倉時代の刀工、正宗の作。 島原の乱で幕府軍として参戦した水野勝成。 その官名「日向守」から名がつけられる。 その後徳川頼宣に渡る。 |
豊前江 | 立花裕大 | 南北朝時代、江義弘の作。 豊前小倉藩の小笠原家に伝来。 初代藩主であった小笠原忠真は 島原の乱のおり、長崎守備を任されている。 |
松井江 | 笹森裕貴 | 南北朝時代、江義弘の作。 熊本藩主・細川家の家臣である 松井興長が所持。 島原の乱にて、主の細川忠利と共に幕府軍として参戦。 |
歴史上の人物
人物 | キャスト | 詳細 |
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天草四郎 あまくさ しろう | 16歳のキリシタン。 島原の乱で一揆軍の総大将を務める。 | |
山田右衛門作 やまだ えもさく | 中村誠治郎 | 南蛮絵師。 有馬家、松倉家に仕える。 島原の乱にて、原城での籠城のただ一人の生存者。 |
松平信綱 まつだいら のぶつな | 島原の乱において、幕府軍総大将。 原城を兵糧攻めにし陥落させる。 幼少より才知に富んでおり、「知恵伊豆」と呼ばれる。 | |
松倉重政 まつくら しげまさ | 島原でキリシタン弾圧、過酷な年貢の取り立てを行う。 | |
松倉勝家 まつくら かついえ | 島原でキリシタン弾圧、過酷な年貢の取り立てを行う。 島原の乱の原因を作った。 | |
寺沢堅高 てらざわ かたたか | 天草でキリシタンを弾圧する。 島原の乱の原因を作った。 |
島原の乱とは?
島原の乱は、1637年にキリスト教徒や農民を中心とした、民衆が起こした一揆のことです。
日本の歴史上、最大規模の一揆と言われています。
江戸幕府は討伐軍を結成。
長崎の原城に立てこもった総大将・天草四郎をはじめとする37000人の民衆は、90日の籠城の末、皆殺しにされました。
ただ一人の生存者を除いて。
ただ一人の生存者、山田右衛門作
島原の乱について
島原の乱が起きた理由
島原
キリシタン信仰が盛んだった島原(長崎)は、戦国時代よりキリシタン大名の有馬晴信が治めており、後に子の有馬直純が治めています。
有馬直純は洗礼を受けてはいたけれど、幕府方の人間であり、後にキリスト教を迫害。
さらにその後、松倉重政が島原に入ったことでさらに民衆の生活は一変。
松倉重政は、過酷な年貢の取り立てやキリシタン弾圧を行いました。
松倉重政のあとを継いだ松倉勝家も、同じくキリシタンを弾圧しています。
特にひどかったのは課税で、家に窓を作れば「窓錢」棚を作れば「棚錢」など、あらゆるものに課税したのだとか。
税を納められない者は、見せしめのための拷問が行われました。
天草
天草(熊本)は、キリシタン大名の小西行長がその領地を治めていました。
小西行長は関ヶ原の戦いで西軍に属し敗北。
石田三成と同じく斬首されてしまいます。
その後に天草を治めることになった寺沢広高、そしてそのあとを継いだ寺沢堅高も、島原と同じく徹底的なキリシタン弾圧を行いました。
島原と天草の合流
このような背景から、島原・天草共にそれぞれが一揆を計画し、合流したものであります。
一揆の直接の原因は以下のようなことだと推測されます。
- キリシタンの反乱
- 過酷な年貢の取り立てに対する反発
島原の乱 島原・天草の一揆
1637年10月。
先に島原の農民が蜂起。
その後、天草でも一揆が起こります。
島原藩はすぐに討伐軍を結成しますが、一揆軍の勢いに押され気味に。
一揆軍は日々拡大していき、天草の富岡城を攻撃するも、堅牢な本丸であったため落城させることはできませんでした。
幕府は、九州の他の藩からも討伐軍を派遣することに。
一揆軍は合流し、原城趾を修復し攻撃に備えようとします。
島原の乱 原城籠城戦
1637年12月。
幕府軍が何度か総攻撃を仕掛けるも、ことごとく失敗に終わります。
1638年1月。
幕府は、老中・松平信綱を派遣します。
このとき、原城に籠城した一揆軍3万7千に対し、幕府軍は12万になっていました。
松平信綱は、原城に甲賀忍者を忍び込ませます。
そして兵糧が少ないことを知り、兵糧攻めをすることに。
1638年2月24日。
幕府軍は原城に総攻撃を仕掛けました。
一揆軍は果敢に戦うも、食糧や弾薬が尽きかけた原城は落城。
一揆軍は全滅し、天草四郎は討ち取られることとなります。
ただひとり、山田右衛門作だけは生き残りました。
島原の乱のその後
圧政を敷いた松倉勝家・寺沢堅高は、一揆を招いた原因とされ処罰されました。
松倉勝家は斬首。このような重い処分をされたのは、江戸時代でこの一度きりだったそうです。
それだけ幕府側も、松倉勝家の圧政に対し思うところがあったのでしょう。
寺沢堅高は領地を没収されるに留まりました。しかしこれが原因で精神を病み自殺しています。
幕府軍によってキリシタンは根絶させられますが、わずかに生き残ったキリスト教徒は「隠れキリシタン」となっていきます。
一国一城令で廃城となった城が一揆などに使われないよう、徹底的に破壊されました。
島原の乱 天草四郎
天草四郎はその生涯に謎が多く、また若くして総大将となったカリスマ性も持ち合わせている天草四郎。
今日においても人気がある理由はそこにあると言えます。
一揆軍の総大将に
島原では旧有馬家の家臣によって反乱計画が立てられ、熊本にある湯島にて談合を行います。
そして当時、キリシタンの間で人気があった少年が総大将として立つことに。
その少年の名は天草四郎(本名・益田四郎時貞)。若干16歳でした。
しかし、実際に反乱を計画していたのは父の甚兵衛や旧有馬家などで、天草四郎は一揆軍のシンボルだったようです。
天草四郎のカリスマ性で、民衆が一致団結したわけですね
天草四郎の生涯
天草四郎は、1621年頃、天草を治めていたキリシタン大名・小西行長の臣下である益田甚兵衛(好次)とマルタ(洗礼名)の子として生まれます。
四郎は学問に秀でており、長崎で学んだと言われています。
天草の寺に身を寄せていたマルコフ神父は「25年後、16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう」と予言を残しています。
この予言の天童こそが天草四郎ではないかとの噂が広まり、一揆軍の総大将に担ぎ上げられるのです。
救世主として神格化され、「神の子」として人々の心をとらえた四郎は、奇跡を起こした(盲目の少女を治した、海の上を歩いた)とも言われています。
島原の乱にて原城が落城し、四郎も討ち取られることに。
しかし、同じような少年たちの首が多くあり、幕府軍はどれが四郎の首か分かりませんでした。
そこで、四郎の母(マルタ)を呼び、首を見せました。
その中のひとつの首を見て、マルタは泣き崩れたそうです。
天草四郎のいでたち
四郎のいでたちは、前髪を垂らし、髪は後ろで束ね、お歯黒をし、白い絹の着物と袴を身に着け、十字架を額に立てたものでした。
16歳でカリスマ性があったと考えると、少年らしさや清純さを持ち、凛としたたたずまいがあって…
お顔も知的だったんだろうなと勝手に想像しています。
四郎は洗礼や説教といった仕事もしており、まさに一揆軍の「神」だったのだと思いました。
島原の乱 山田右衛門作
原城籠城戦での唯一の生き残りである、山田右衛門作(やまだ えもさく)は南蛮絵師です。
ポルトガル人に西洋画を習い、お抱え南蛮絵師として有馬直純・松倉重政・松倉勝家に仕えています。
山田右衛門作は、島原の乱に自分から参加したわけではありません。
一揆軍に妻子を人質に取られたため、やむなく一揆軍とともに原城に立てこもります。
山田右衛門作は学問に秀でており、それを買われて天草四郎のそばで働きました。
また守備隊長として軍を率いていました。
天草四郎の陣中旗も山田右衛門作が描いたそうです
(天草市立天草キリシタン館所蔵)
幕府軍との交渉をするための「矢文の文章作成」の役を生かし、幕府と内通を図ります。
これが天草四郎にばれ、妻子は処刑され、山田右衛門作自身も牢に入れられます。
しかし間もなく落城し、山田右衛門作は発見され、松平信綱によって助命されたのです。
そして島原の乱についてすべてを告白します。
その後は江戸の松平信綱屋敷へ行き、絵を描いて暮らしました。
一説では「宗門目明し」(踏み絵)の絵を描き、隠れキリシタンの摘発をするために働いたそうです。
島原の乱 歴史と人物について 「静かの海のパライソ」刀ミュ
島原の乱は、圧政とキリシタン弾圧に反発した、農民とキリシタンによる一揆です。
圧政を敷いた藩主がもともとの原因であるだけに、非常に悲しい出来事だと思いました。
圧政で死んでいった村人たち。
担ぎ上げられた16歳の少年。
一揆軍に人質を取られ、守ろうとして守り切れなかった南蛮絵師。
政治を変えようと必死に戦った人もたくさんいます。
無理矢理一揆に参加させれられた人も多かったでしょう。
歴史には争いがつきもので、そこには勝者と敗者がいつもあるけれど、調べていてこんなにやるせない気持ちになったのは初めてです。
と同時に、もっとこの歴史を知りたいと思いました。
いつか長崎・熊本を旅して回りたいです。
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