江水散花雪(こうすいさんかのゆき) 桜田門外の変 歴史と人物 

ミュージカル刀剣乱舞「江水散花雪(こうすいさんかのゆき)」の題材となっている、桜田門外の変の歴史と人物についてまとめました。

  • 刀剣男士について
  • 歴史上の人物について
  • 江水散花雪とは?
  • 桜田門外の変について

こちらについて史実をまとめています

※刀ミュのあらすじではありません。

文字数が多いのでもくじから興味のあるところに飛んでください。

刀剣男士の立ち位置的なものは、すぐ次の項目にありますので是非参考にしてみてくださいね。

【1/30 18:00】ライブ配信 ミュージカル『刀剣乱舞』 〜江水散花雪〜 ディレイ配信付き

目次

江水散花雪(こうすいさんかのゆき) 桜田門外の変 登場人物 

時代のずれなどありますが、大体このへんというふわっとした感じでみてください

江水散花雪と桜田門外の変に関する部分をピックアップしています。

刀剣男士

刀剣男士キャスト詳細
和泉守兼定
いずみのかみかねさだ
有澤樟太郎十一代目会津兼定(友弥兼元)の作。

幕臣・新選組副長、土方歳三の愛刀。
大包平
おおかねひら
松島勇之介平安末期、古備前派の刀工・包平の作。

備前岡山藩主の池田家に伝来。
小竜景光
こりゅうかげみつ
永田光平鎌倉時代、備前長船派の刀工・景光の作。
名前の由来は小さい倶利伽羅龍が彫られていることから。

桜田門外の変で暗殺された井伊直弼が所有していた刀。
山姥切国広
やまんばぎりくにひろ
加藤大悟備前長船長義の「本作長義」の写しとして堀川国広が作刀。
しかし姿かたちはあまり似ていない。

彦根藩・井伊家に伝来し、井伊家の家臣が所持していた。
南泉一文字
なんせんいちもんじ
武本悠佑鎌倉時代、福岡一文字派によって作刀。
名前の由来は猫が真っ二つになったことと、
唐の故事で南泉という僧が猫を真っ二つにしたことを掛けている。

豊臣秀吉→徳川家康→尾張徳川家が所持。
※尾張徳川家は一橋派(水戸藩)
肥前忠広
ひぜんただひろ
石川凌雅肥前佐賀藩の初代忠広の作と言われる。

坂本龍馬→岡田以蔵(尊王攘夷派)と持ち主が変わる。
勤皇の志士・本間誠一郎暗殺の折に切っ先のほうが折れている。

歴史上の人物

人物キャスト詳細
井伊直弼(井伊掃部頭 いいかもんのかみ)
吉田松陰(吉田大次郎)

江水散花雪(こうすいさんかのゆき)とは?

引用:茨城県立図書館デジタルライブラリー(詳しく見たい方はこちらのリンクから)

浮世絵師・月岡芳年(つきおか よしとし)が桜田門外の変(1860年3月3日)を描いた画のタイトル。

江水散花雪の詳細

製作者:月岡芳年

製作年:明治7年(1874年)

仕様:大判錦(43㎝×29㎝)3枚続きの画

月岡芳年

幕末~明治にかけての浮世絵師。

歴史画・美人画・役者画・無惨画・風俗画などを描く。

無惨画(芝居の中の残酷なシーンを描いたもの)が有名であることから、「血まみれ芳年」の異名を持つ。

浮世絵が終わりゆく時代に生きた「最後の浮世絵師」とも言われる。

桜田門外の変について

桜田門外の変とは?

1860年3月3日、江戸幕府の大老・井伊直弼が元水戸藩17名、薩摩藩の浪士1名に暗殺された事件です。

井伊直弼は、自邸である彦根藩邸から出発し、桜田門へ入る直前に襲われました。

犯行時間はわずか数分程度、衆人観視の中で起きたという前代未聞の出来事でした。

警護の目がある江戸城前でなぜ事件は起こったのか?

これまでに大名行列が襲撃されたことはなく、あり得ないことだという警護のゆるみがありました。

大名屋敷と江戸城の距離はわずか500mであり、また登城の道が決まっていたこともあげられます。

折からの雪で、井伊直弼を護衛する彦根藩士は合羽を着用し、刀には防水袋が掛けられていました。

これが原因でとっさに迎え撃つことができなかったのです。

うさこ

それまでは大名の駕籠が襲われなかったことからも
この事件は泰平の世が崩れ出した一端に感じるね

桜田門外の変が起きた理由は?

桜田門外の変が起きた理由は、「日米修好通商条約」の締結幕府の跡継ぎ問題です。

またそれらの背景には、幕府と朝廷の対立がありました。

「日米修好通商条約」の締結

1858年、江戸幕府(大老・井伊直弼)が朝廷の許可を得ずに、アメリカ合衆国と条約を結びました。

ひつじ先生

これが「日米修好通商条約」です

政治の実権は江戸幕府が握っていましたが、立場的には朝廷が上というものでした。

当然、条約の締結には朝廷の印も必要となります。

朝廷(孝明天皇)からすれば、自分の許可なくして勝手に事を進めた江戸幕府に不満を持つわけです。

さらに、「日米修好通商条約」は開国をするための条約で、開国を嫌う朝廷にとっては許しがたいものでした。

(とはいっても、幕府もすすんで条約を締結したわけではなく、武力でアメリカに勝てないという背景がありました)

朝廷は、水戸藩(徳川御三家のひとつ)に内密で勅書を出します。

内容は、勝手に調印したことを非難し、攘夷(外国を排除する)を進め、幕政を改革せよと要求するものでした。

さらに、諸藩にも勅書の写しが配られていました。

時の最高権力者である江戸幕府としては、朝廷の命令を水戸藩から各藩に伝えられたのでは立場がありません。

また、江戸幕府を通さず勅命が下ったのはこれまで一度たりともなかったことなのです。

ひつじ先生

朝廷はそれほど強く幕府を非難したということですね

そこで江戸幕府は、勅書を返納するよう水戸藩に要求し、これが原因で水戸藩は内部分裂することになりました。

水戸藩には尊王攘夷派閥(天皇を敬い外国を排除する)があり、勅書返納に強く抵抗した水戸藩士のうち17名が脱藩し、のちに桜田門外の変を起こすことになります。

幕府の跡継ぎ問題

13代将軍・徳川家定には実子がなく、跡継ぎを巡り徳川家が分裂していました。

南紀派

紀伊藩主・徳川慶福(徳川家茂)を推した一派。

幕政の中心となる者が多い。

彦根藩主・井伊直弼、会津藩主・松平容保、高松藩主・松平頼胤 など


一橋派

一橋徳川家・一橋慶喜(徳川慶喜)を推した一派。

幕政からは遠ざけられていた。

前水戸藩主・徳川斉昭(慶喜の父)、尾張藩主・徳川慶勝、薩摩藩主・島津斉彬 など

1858年、井伊直弼が大老に就任したことですべての主導は彼のものとなります。

現将軍の血が濃いという理由で、井伊直弼は南紀派の徳川慶福(当時12歳)を13代将軍・徳川家定の養子にしました。

この時点で14代将軍は徳川慶福(家茂)と決定したのです。

聡明で何度も時期将軍にと推されていた、一橋慶喜を擁する一橋派の敗北、

さらに、朝廷の「時期将軍には年長の人がよい」という意向に反する形になりました。

うさこ

跡継ぎ問題は血の濃さor聡明さ
で分かれたんだね

もちろん派閥の問題もあるね

安政の大獄へ

■朝廷を無視した「日米修好通商条約」の締結。

直接水戸藩へ送った朝廷の勅書と、返納を求める江戸幕府。

■南紀派の井伊直弼による、14代将軍の強引な跡継ぎ決定。

これに納得がいかなかった水戸藩を含む一橋派の面々は許可なく江戸城へ登城し、井伊直弼に直談判をします。

しかし直訴が聞き入れられるはずもなく、一橋派のほとんどが蟄居や謹慎を命じられ、これがきっかけで1858年~1859年にかけて「安政の大獄」が進められていきます。

井伊直弼は、朝廷から水戸藩に送られた勅書は陰謀だとして、反発する者を次々と弾圧。

さらに、尊王攘夷を掲げる大名や公家、活動家100人以上が処罰されました。

処刑された主な著名人

安島帯刀(水戸藩家老)
鵜飼幸吉(水戸藩京都留守居役助役)
茅根伊予之介(水戸藩奥右筆)
梅田雲浜(元小浜藩士)
飯泉喜内(元土浦藩士)
頼三樹三郎(京都町儒者)
橋本左内(越前福井藩 松平春嶽家臣)
吉田松陰(長州藩 毛利敬親家臣)

ひつじ先生

「安政の大獄」以降、
井伊直弼は「井伊の赤鬼」と
呼ばれるようになりました

桜田門外の変の経緯

1859年より、水戸藩脱藩浪士による井伊直弼襲撃の計画が練られ始めました。

1860年3月1日に数名が集まり、襲撃の段取りなどを確認しました。

3月2日、全員が一堂に会し、襲撃の成功を誓い合います。

全員が揃うのはこれが最初で最後だったと言います。

3月3日午前8時、季節外れのぼたん雪で真っ白な景色の中、大名行列が始まります。

この日はひな祭りを祝うため、大名たちは全員が揃って登城する決まりになっていました。

大名全員が登城するときは必ず井伊直弼も登城する、と見込んでの決行でした。

江戸の町人に扮した襲撃者たちは見物客に紛れ、来たるべき機会をうかがいます。

午前9時ごろ、彦根藩邸の屋敷から井伊直弼を駕籠に乗せた一行が出発。その数60名ほど。

実は襲撃者の情報を知っていた井伊直弼ですが、
大老が狙われるなんてことはメンツにも関わると考えたのでしょうか、
警備を強化することはしませんでした。

井伊直弼の駕籠が桜田門外に差し掛かったころ、駕籠に銃弾を撃ち込み、それを合図として襲撃が開始。

応戦する者逃げる者が入り乱れ、現場は阿鼻叫喚となりました。

雪で刀袋をかけていた彦根藩士達はとっさに刀が抜けず、被害が広がりました。

逃げ出した駕籠かきの代わりに、駕籠をかこうと近寄った者たちは次々と斬り付けられます。

誰も護るもののいなくなった駕籠に次々と刀が突き立てられます。

最後に、ひとりだけ参加した薩摩藩出身の浪士・有村が井伊直弼の首を打ち取ったのでした。

この間わずか数分の出来事でした。

桜田門外の変 その後どうなった?

襲撃者たち

襲撃をした元水戸藩の浪人たちは、ほとんどが自刃か斬首となりました。

彦根藩士たち

襲撃を受けた彦根藩士達も逃げ帰ったという罪で、切腹もしくは斬首となりました。

江戸幕府の対応

江戸幕府は、「井伊直弼が急病、家督を譲り、そののち病死した」ことにします。

2か月間井伊直弼の死は隠され(実際には隠されていないけれど)、病気平癒の祈祷なども行いました。

将軍からは彦根藩邸に薬と人参が贈られました(隠せてないけれど)

とはいえ、この措置はとても重要なものでした。

■藩主が家督を継ぐ者を決めずに死亡した場合、御家断絶となることを回避。

御家断絶により彦根藩士に敵討ちをさせないため。

江戸幕府も彦根藩に対し、報復はしないよう再三注意している。


■安政の大獄にて罰せられた水戸藩に対し、さらに制裁をしない意向を示す。

さらなる襲撃・争乱を防ぐためと言われています。

当然多くの観衆の前で起きたことにより、人々は真実を知っていました。

首がないのに病気だと触れまわる幕府に対し、皮肉ったような川柳が流行したそうです。

「倹約で枕いらずの御病人」

「遺言は尻でなさるや御大病」

「人参で首をつげとの御沙汰かな」

世間はの目はごまかせないですよね。

ひつじ先生

瓦版が売れに売れたそうです

当時でも相当なスキャンダルだったでしょうね

水戸藩

水戸藩は、江戸幕府に対し襲撃者(脱藩した浪人)を探すと明言しています。

その後、襲撃者が捕まり、南紀派であり会津藩主の松平容保のとりなしで事なきを得ます。

松平容保は江戸幕府と水戸藩の間に立ち、水戸藩からうまく勅書を返上することに成功しました。

うさこ

松平容保と言えば新選組!

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜

1866年、第14代将軍徳川家茂が亡くなり、第15代将軍として徳川慶喜が就任しました。

徳川慶喜は徳川幕府最後の将軍となったのです。

江水散花雪(こうすいさんかのゆき) 桜田門外の変 歴史と人物 まとめ

幕末は事情が込み入りすぎて説明が難しいです。

分かりやすく書くよう心がけましたが、文字が多くなってしまい読みにくいかもしれません。

刀ミュを見るまでに、ふんわり立ち位置と出来事を知っておけばOKだと思います。

個人的にお話の舞台が大好きな幕末ということと、まんばくんが出陣すると言うことでとても楽しみにしています。

【1/30 18:00】ライブ配信 ミュージカル『刀剣乱舞』 〜江水散花雪〜 ディレイ配信付き

スポンサーリンク

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次