特命調査「慶長熊本」細川ガラシャと細川忠興 歴史と人物 刀剣乱舞

特命調査「慶長熊本」の、歴史背景と登場人物についてまとめました。

細川ガラシャと細川忠興にまつわる出来事を中心に、解説しています。

また、刀剣男士との関わりについても調べました。

目次から読みたい部分へ飛べます。

もくじ

特命調査「慶長熊本」 細川ガラシャと細川忠興

教会の天使像

細川ガラシャの人物像

細川珠(ほそかわ たま)/明智珠(あけち たま) ※珠子、玉、玉子

洗礼名/ガラシャ(神の恵み)

ガラシャを知るうえで、知っておきたいポイント。

  1. 明智光秀の3女
  2. 細川忠興の正室
  3. 本能寺の変で「謀反人の娘」となる
  4. 敬虔なキリスト教信者
  5. 大坂の細川邸で壮絶な最期を遂げる

細川ガラシャの性格は?

ガラシャは気位が高く、気性が激しく、肝が据わっていました。

しかしキリスト教に出会い、その性格は明るく穏やかに。

また「明晰かつ懸命な判断力がある日本女性」と、ガラシャと会った修道士は語っています。

細川ガラシャの生涯

明智光秀の3女

1563年に越前国(福井県)で明智光秀の3女として生まれます。

細川忠興も同じ年の生まれなので、今でいうと同級生カップルでしょうか?

細川忠興と結婚

新婚時代を過ごした勝龍寺城

1578年、珠は細川忠興と結婚。

織田信長の命による結婚でしたが、2人は仲が良く、たくさんの子供に恵まれています。

美男美女カップルとして有名で、特に珠は信長も認める美人だったそうです。

本能寺の変で「謀反人の娘」となる

4年後、そんな珠の順風満帆な人生が急転する事件が起こります。

1582年、本能寺の変で父の明智光秀が織田信長を討ち、珠は「謀反人の娘」となってしまうのです。

珠の母や姉は自害し、珠自身は忠興によって丹後国(京都北部)へ幽閉されます。

細川家で珠を監視し行動を制限することは、周りへの示しをつけるためでもあり、同時に珠の命を守ることでもあったのかなと思います。

本来ならば離縁もしくは自刃を命じるところを、決して手放さなかったのは、忠興の珠への愛情が深かったからでしょうかね。

1584年、羽柴秀吉のとりなしで珠は幽閉を解かれ、大坂の細川家屋敷へ。

しかし珠は大坂でも24時間中監視され、不自由な生活を強いられています。

敬虔なキリスト教信者に

このころ、忠興が高山右近(キリシタン大名)から聞いたカトリックの話に、珠は心惹かれていきます。

なぜここまでキリスト教に惹かれたのかは謎のままですが、幽閉され、不自由な生活を強いられ、心が荒んでいったのだと推察します。

1587年、忠興が九州征伐で屋敷を留守にしたタイミングを狙い、こっそりと教会へ行きます。

その場での洗礼は見合わせたものの、侍女を通じて牧師とやり取りし、書物を読み、珠の信仰は深まっていくばかり。

同年、九州征伐に出征していた豊臣秀吉がバテレン追放令を出したため、宣教師たちは九州(長崎平戸)へ向かうことに。

宣教師と侍女の清原マリアの助けにより、自邸でこっそり洗礼を受け、洗礼名「ガラシャ」を授かります。

九州征伐から帰ってきた忠興は、洗礼を受けたことに激怒。

信仰をやめさせようとしますが、ガラシャは頑として聞き入れず、結局黙認することに。

忠興は「5人の側室を持つ」などといい、ガラシャにつらく当たります。

自分の思い通りにならないガラシャに対して、わざと当てつけていたのかもしれません。

ガラシャはさすがに離婚したいと思ったようですが、カトリック教は離婚は禁止。

宣教師は、ガラシャに離婚を思いとどまるよう説得しています。

大坂の細川邸で壮絶な最期を遂げる

1600年、関ヶ原の戦いの幕開けとなる上杉征伐に、忠興は東軍(徳川側)として参加。

忠興は「自分が不在の時、妻の名誉に危険が生じたなら、日本の習慣に従い、まず妻を殺し、全員切腹して妻と死ぬように」と命じます。

(忠興が家を空ける時はいつも言っていたようです。)

西軍の石田三成は、大名の妻を人質にとり、東軍の動きを押さえる作戦を実行。

石田三成は、忠興が不在にした隙に、大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質にとろうとします。

しかし、ガラシャはこれを断固拒否。

石田三成は実力行使に出ようと、屋敷を包囲。

ガラシャは「夫の命令のとおり、自分だけが死にたい」といい、屋敷内の侍女たちを逃がしました。

キリスト教は自殺を禁止してるため、ガラシャは家老の小笠原秀清に、自分を槍で突くように命じます。

その後、小笠原秀清はガラシャの遺体が残らないよう、屋敷に爆薬を仕掛けて火をつけ、自刃。

ガラシャの死後、数時間後に宣教師オルガンティーノは細川屋敷へ赴き、ガラシャの骨を拾いキリシタン墓地に埋葬しました。

細川ガラシャ 辞世の句

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」

人も花も散り時を知っているからこそ、美しい。私もそうありたいものだ。

細川忠興の人物像

細川忠興はこんな人。

文武両道の美男子だったそうです。

  1. 天下一の短気
  2. 優れた文化人
  3. 忠義の男

天下一の短気

宣教師オルガンティーノに「残酷で悪辣な異教徒」と言わしめた忠興。

非常に気が短く残酷であったことで知られます。

義父の明智光秀にすら「降伏してきた者をむやみに殺してはならぬ」と言われるほど。

あるとき、「細川家の家臣はしつけが行き届いている、どうしているのか?」と聞かれた忠興は、

「2回目までは教えるが3回目は斬る」と答えます。

また、キリスト教に改宗した侍女の耳と鼻を削ぎ、追い出しています。

忠興は妹・伊也の夫である一色義定を暗殺し、恨まれた伊也に切りつけられる事件が発生。

一文字に斬られた鼻の傷は、残ったままだったそうです。

伊也は後に他家へ嫁ぎ、子供にも恵まれました。

忠興の所持している「歌仙兼定」は家臣36人を、その刀で手討ちにしたことから、その名がつけられています。

家臣と言っても忠興自身のではなく、家督を継いだ三男・忠利の家臣なんです。

肥後熊本藩主である忠利の政治がうまくいかないのは、家臣の不忠のせいだとし、家臣を呼び出し斬ったのが36人。

平安時代の歌人「三十六歌仙」にちなみ、つけられたという…36しか合っていませんが。

しかも、忠利が肥後藩主となった1632年以降の話だから、御年69歳は超えているはず。

歌仙兼定の斬れ味もさることながら、武道にも長けていた忠興のエピソードです。

短期&残虐だったエピソードがてんこ盛りの忠興ですが、素晴らしい一面も持っています。

優れた文化人

忠興は「雅」を愛する文化人でもありました。

茶道・和歌・能楽・絵画に優れている文化人の顔も持っています。

茶人・細川三斎という別名もあり、利休の優れた弟子である、「利休七哲」の一人です。

その中でもさらに優れている「利休門三人衆」でもありました。

また、武具の拵えを自ら考案し、「肥後拵」「越中具足」として知られています。

芸術方面にとても優れていたんですね。才能ありすぎ!

文化人としての忠興は、多くの著名人との交流があり、情報戦に長けているという長所も兼ね備えていました。

忠義の男

忠興が出世するきっかけとなった織田信長には、誠心誠意尽くしています。

細川家の九曜紋は、信長の小刀に描かれていたものが由来となり、忠興の「忠」は信忠(信長の息子)から一字もらっています。

「京都御馬揃え」では信長のために京都中を探し回り、「蜀紅の錦の小袖」を献上しています。

また、織田信長の月命日には、身を清め行いを慎み、高齢になっても大徳寺への焼香を欠かさなかったとか。

茶道の師匠である千利休が、豊臣秀吉に蟄居を命じられたとき、とばっちりを恐れた他の弟子たちは利休に近づきませんでした。

しかし忠興と古田織部だけは師匠への恩を忘れず、蟄居のさいに見送りに行きました。

千利休は感謝し、2人の弟子に礼状を送りました。

細川忠興とガラシャのエピソード

忠興のゆがんだ愛情がうかがえるエピソードが多いですが、それに応酬する珠もなかなかに気の強い女性だったようです。

  1. 屋敷の奥に住まわす
  2. 蛇のような女
  3. 血の付いた小袖を着続ける
  4. 忠興の手紙
  5. 教会葬を行う

色々なエピソードが後世に伝わってるということは、臣下の前でも日常的に繰り広げられていたのでしょうか?

愛情のすれ違いはあれど、釣り合いの取れた夫婦だったように思いました。

屋敷の奥に住まわす

忠興は屋敷の奥に珠を住まわせ、外出も許しませんでした。

珠の監視の意味合いもあったでしょうが、美人の妻を自分だけのものにしておきたかったんでしょうね。

蛇のような女

珠と忠興が食事をしている時、珠に見とれた庭師を打ち首にし、食事をしている珠の前に置きました。

しかし珠は、平然と食事を続けたそうです。

これを見た忠興は「蛇のような女だな」といい、珠は「鬼の夫には蛇の妻が似合いでしょう」とすかさず言い返しました。

血の付いた小袖を着続ける

無礼なふるまいをした家臣を手打ちにした忠興は、刀の血を珠の小袖でぬぐいます。

珠はそのまま血の付いた小袖を何日も着続けました。

忠興が珠に謝って、ようやく着替えてもらったそうです。

忠興の手紙

朝鮮出兵中、忠興は珠に何通もの手紙を送っています。

内容は「秀吉になびかぬように」

秀吉の女好きを知っていた忠興は、美人の妻が秀吉にとられないかと家を空けるたびに心配していました。

(珠はしっかりした女性で、秀吉に挨拶する際、わざと短刀を落として牽制したという逸話があります)

教会葬を行う

珠を亡くし、棄教しろとまで言ったキリスト教での葬儀を行い、珠の菩提を弔った忠興。

豊前国(福岡東部~大分北部)小倉藩初代藩主になったときは、キリスト教を保護しています。

ここまでならいい話なのですが、珠が細川屋敷で逃がした侍女の中には長男・忠隆の嫁(千世)がいました。

忠興は逃げた千世に激怒し、忠隆に離婚しろと命じます。しかし忠隆はこれを拒否。

忠興は忠隆を嫡廃し、三男の忠利に家督を譲ります。

次男の興秋はこれに不満を抱き、大坂の陣で豊臣方につきます。

豊臣軍の敗北後、忠興は、興秋が助命嘆願することを許さず、自刃して亡くなりました。

※島原へ逃げたという異説もあり。

忠興の執着が、珠の死後も細川家に波紋を広げたことは言うまでもありません。

特命調査「慶長熊本」 キリシタンが勝利した世界

歌仙たちは1596年の慶長熊本に出陣しています。

慶長熊本はキリシタンの世界になっており、キリシタン大名の大村純忠や有馬晴信、小西行長が登場。

この時点では死んでいる大村純忠が生きていて、

本来なら有馬晴信は朝鮮出兵していて不在。

小西行長も明との交渉役となり奔走しています。

3人が熊本にいるということは、豊臣秀吉の九州征伐が失敗した世界かなと考えます。

1596年の史実では「サン=フェリペ号事件」が起こった年です。

1567年に秀吉がカトリック信者を処刑した、「日本26聖人殉教」のきっかけとなった事件ですね。

秀吉がキリスト教に対し、不信感や恐怖を感じたため起こった事件ですので、これらがまるっとなくなっていると思われます。

大村純忠

肥前国(長崎)、三城の城主。

洗礼名は「ドン・バルトロメオ」

もとは有馬家の出身。大村へは養嗣子になり、家督を継いでいる。

有馬晴信は甥にあたる。

日本初のキリシタン大名で、ヨーロッパの窓口である長崎港を開港。

4人の少年からなる天正遣欧使節団を送った大名の一人。

(千々石ミゲルは、大村純忠の甥)

1587年のバテレン追放令が出る少し前に、病で亡くなっている。

有馬晴信

肥前国(長崎)、日野江藩(島原周辺)藩主。

洗礼名は「ドン・プロタジオ」

キリシタン大名の大友宗麟や大村純忠と共に、天正遣欧使節団を送った。

1587年に秀吉がバテレン追放令を出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していた。

朝鮮出兵にも参加し、1592~1598年の6年間を朝鮮で過ごす。

1600年の関ヶ原の戦いでは東軍についている。

小西行長

肥後国(熊本県)、宇土城の城主。

洗礼名は「アウグスティヌス」

2度の朝鮮出兵に参加。1592~1593年(文禄の役)、1597~1598年(慶長の役)

2つの朝鮮の役の間では、明と日本の講和交渉に携わる。

講和を進めようと虚偽の報告をし、秀吉を激怒させて死を命じられるが、淀殿や前田利家のとりなしにより、なんとか命をとりとめる。

その後、慶長の役に出兵を命じられ、不義理を償うよう武勲を立てることを命じられた。

特命調査「慶長熊本」 刀剣男士

歌仙たちの会話に出てくる「花」とは、ガラシャのことを指していますね。

ガラシャを「姉さま」と慕い、守る地蔵行平。

細川忠興から明智光秀に渡った刀なだけに、ガラシャを守る使命があるのは当然と考えます。

1581年に忠興は地蔵行平を光秀に贈っています。

1582年に幽斎から家督を受け継いだので、その時に之定(のちの歌仙)も一緒に受け継いだものと思われます。
(理由は細川家に伝来とあるため。家督を継いだ者が持っていると考えました)

慶長熊本で歌仙と地蔵の面識がないのも納得がいく話です。

1600年に死ぬはずのガラシャを、1596年に討たないといけない。

古今伝授がやらなければいけない「後始末」、これはガラシャの身代わりをして史実に近づける、と考えます。

古今伝授は和歌の縁が深い刀ですが、見た目や装いから、ガラシャの身代わりだったとしてもおかしくないかなと思いました。

熊本城の闇り通路(くらがりつうろ)で迷う歌仙。

熊本城は1600年、加藤清正によって天守が完成。

1610年の本丸御殿の建築により闇り通路(地下通路)を通って天守に行くようになります。

熊本城へ歌仙がやってきたのは1632年以降だと推測するので、そのころの闇り通路とは様子が違って当たり前なのか。

それとも歴史改変で闇り通路が迷路になっているのか。

歌仙は「彼女を深く愛していたがゆえに、僕が生まれるようなことになった」と言っているのですが、これはどういう事だろう。

ガラシャの死が原因で優秀な長男を嫡廃し、凡人の三男に家督を継がせたら政治がうまくいかない。

結果、家臣を斬ることになり、名前の由来に至ったことを言っているのかしら。

もっとも、改変されているだけに整合性がない可能性があるので、考察は意味がないかもしれませんね(笑)

特命調査「慶長熊本」 古今伝授の歌

世の中に 絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

この世の中に桜が全くなければ、春の人々の心はのどかだっただろうなあ。

天津風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ

空を吹く風よ、雲の通り道をふさいでおくれ。美しい天女が舞う姿をしばらく見ていたいのだ。

万世を 松にぞ君をいはひつる 千年のかげに住まむと思へば

父上の長寿を松と鶴に願い、お祝いします。これから千年先まであなたの恩顧のもとで過ごしていきます。

木にもあらず 草にもあらぬ竹のよの 端にわが身はなりぬべらなり

木でもなく草でもない、竹の間(すきま)のように、私は世の中の半端者になってしまったようだ。

梅が枝に 来ゐる鶯春かけて 鳴けどもいまだ雪は降りつつ

梅の枝に鶯が止まって、春が来るのを待ちながら鳴いているが、まだ雪が降りつもっている。

来ぬ人を 待つ夕暮れの秋風は いかに吹けばかわびしかるらむ

来ない人を待つ夕暮れの秋風は、どうやって吹けばこんなに寂しくさせるのでしょうか。

久しくも なりにけるかな住の江の 松はくるしきものにぞありける

あなたが来なくなってずいぶん経ちました。待つということはこんなにも苦しいものなのですね。

糸による ものならなくに別れぢの 心細くも思ほゆるかな

きつくよった糸の先のように細いわけでもないのに、別れ道は心細く思えるなあ。

特命調査「慶長熊本」細川ガラシャと細川忠興 歴史と人物 まとめ

忠興がガラシャを愛するあまり、色んなことが起きたことが分かりました(ざっくりしすぎ)

忠興のエキセントリックな行動が印象に残りますが、文化人としても優秀であったので、才能持ちすぎな人なんだなと思います。

なんだかんだ言って、当時から2人は魅力的な人物だったのでしょう。

だから周りの注目度も高かったし、いろんなエピソードが残ってる。

ガラシャを調べ始めたのに、忠興も気になって仕方がないんだもの(笑)

そうだ、慶長熊本はぜひ極の歌仙を部隊長にしてくださいね。

めちゃかっこいい歌仙が見られますので。

あ、歌仙なしでイベントクリアしても、特命調査のエピソードから見られますのでご安心ください。

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