刀ステ綺伝 天正遣欧少年使節の栄光と終焉 舞台「刀剣乱舞」

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)が、刀ステ綺伝に出ることが発表されました。

天正遣欧少年使節は、伊藤マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人の少年による、日本初の公式使節団です。

彼らは13歳前後でローマへ派遣され、数々の歓待を受けて日本に無事帰還。

しかし、8年後に見た日本は彼らが考えていた天国ではありませんでした。

本記事では、天正遣欧少年使節の栄光とそれぞれの終焉について調べました。

彼らが生きた時代とは、どのようなものだったのでしょうか?

目次

天正遣欧少年使節について

天正遣欧少年使節のメンバー

  • 伊藤マンショ ※大友宗麟の血縁
  • 千々石(ちぢわ)ミゲル ※大村純忠の甥
  • 中浦ジュリアン ※父は大村家の家臣・中浦甚五郎
  • 原マルチノ ※父は大村領の名士・原中務

長崎の日野江城下に建てられたセミナリオで学ぶ生徒の中から、使節のメンバーは選ばれました。

セミナリオは、キリシタン大名などの良家の子息しか入学を許可されていない特別な学校です。

セミナリオでは10歳から18歳の少年130名ほどが在籍し、カリキュラムを受けていました。

授業はラテン語やキリスト教教理・楽器の演奏・合唱・作文・習字など多岐に渡ります。

かなり高度な教育を行っていたことが分かると思います。

うさこ

エリートを育成していたことが分かるね

ひつじ先生

セミナリオより上の教育課程はコレジオと呼ばれました
コレジオは10年制大学のようなものだったとか

天正遣欧少年使節の目的

  1. キリスト教を日本に布教するため。

    (少年たちにキリスト教文化を体験させ、それを日本に広めるため)
  2. ローマ教皇の支援を受けるため。

    (日本のエリート少年たちをローマ教皇に会わせることで、支援が得られると考えた)

天正遣欧少年使節を計画した人

イエズス会カトリック教会の司祭・アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって発案されました。

ヴァリニャーノはイエズス会の巡察師(布教状況を視察する重要な役目)でした。

日本にキリスト教文化を紹介し、またヨーロッパに日本という国を紹介するため、使節団を派遣したのです。

4人は大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として使節団が結成されました。

天正遣欧少年使節の旅路

ピサの大聖堂
1582年(天正10年)2月長崎港を出港
1583年(天正11年)12月マラッカ・コチンをへてゴアに到着
ヴァリニャーノと別れる
1584年(天正12年)8月ポルトガルに到着
リスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿の王宮に招かれる

エヴォラ大聖堂で伊東マンショと千々石ミゲルがパイプオルガンを演奏
スペイン国王フェリペ2世の歓迎を受ける
1585年(天正13年)3月トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見

社交界デビュー
ピサの斜塔や大聖堂を見学

聖ステファノ騎士団を見学
ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見
グレゴリウス13世は300人の護衛兵を4人の迎えに向かわせる

ローマ市民権を与えられ貴族として扱われる
5月シクストゥス5世の戴冠式に出席
6月ローマを出発
以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問
1586年(天正14年)4月リスボンを出発。帰路につく
1587年(天正15年)5月インドのゴアに到着。ヴァリニャーノに再会
コレジオにおいて原マルティノの演説が行われる

長崎で大村純忠が死去
6月豊後で大友宗麟が死去
7月豊臣秀吉によるバテレン追放令発布
1590年(天正18年)7月長崎に帰港
ひつじ先生

13歳前後で出発した少年たちは
21歳前後で帰国したんだね

使節団はヨーロッパの国々を巡り、好待遇で迎えられています。

国王やそれに準ずる人物との謁見を許され、社交界デビューで夫人のお相手を務めたりもしています。

特にローマ教皇グレゴリウス13世は彼らにローマ市民権を与え、貴族に列するものとして扱われるなど、最上級の扱いを受けました。

しかし、数々の栄光を受けて日本に戻った4人が見たのは、天国などではなく地獄の光景でした。

有力なキリシタン大名の死、秀吉によるバテレン追放令の発布でキリシタンは国外へ追放されていきます。

教会は破壊され、セミナリオやコレジオはなくなり、キリスト教は表舞台から消え去ったのでした。

棄教しないキリシタンは処刑、迫害され、徹底的に追い詰められました。

彼らの絶望たるや想像に難くありません。

天正遣欧少年使節 4人の終焉

マカオ・サン・パウロ教会

あれだけの高等教育を受け、若くしてローマへ渡り、色々なことを見聞してきた彼らに明るい未来はありませんでした。

時代は彼らにどこまでも過酷だったのです。

伊東マンショ

中浦ジュリアンとマカオへ3年間留学。

司祭になり、小倉で布教活動をしていましたが、細川忠興に追放され長崎に移っています。

コレジオで教壇に立っていましたが、体を壊し1612年に死去します。

千々石ミゲル

帰国10年後に棄教。イエズス会から除名されます。

棄教の理由は明かされていませんが、キリスト教の制度に対し思うところがあったようです。

千々石清左衛門と名を改め、大村藩の藩士として周りに棄教を勧めています。

しかし、キリシタンからは裏切り者と言われ暗殺されそうになったりと、あまりいい晩年は送れなかったようです。

2021年9月16日、諫早市多良見町で千々石ミゲルと思われる骨が発見されました。

千々石ミゲルとその妻と思われる戒名が石碑に刻まれていたため、2014年から発掘を開始。

ロザリオの一部やガラス片、さらに妻と思われる骨も出土していたそうです。

当時の埋葬の方法としてはかなり珍しいそうですよ。

2022年4月23日、千々石ミゲル夫妻のお墓と確定しています。

お墓は戒名(仏式)にして、隠すようにロザリオを一緒に埋葬したんでしょうね。

信仰を捨ててなかったこと、隠れキリシタンの仲間がいたんだなと思います。

400年以上の時を経て、彼らに改めて出会ったような気なりました。

歴史はロマンだ。

中浦ジュリアン

20年間布教活動を行い、1614年の禁教令ののちも日本に潜伏し布教を続けました。

1633年に小倉で捕縛され、棄教を迫られましたがそれには従わず殉教します。

死ぬとき「わたしはローマを見た、中浦ジュリアン神父である」と役人たちに言い残したそうです。

原マルチノ

マカオに追放され1629年に死去。

語学に堪能だったので、マカオでは洋書の翻訳や出版などを手掛けました。

マカオのサン・パウロ教会に眠っています。

サン・パウロ教会は聖ポール天主堂と呼ばれています。

管理人は1度だけ行ったことがありますが、教会の前面の石造りだけ残ってる教会です。

すごく高くて立派な石造りでした。

コインを窓に投げられたらラッキーみたいな願掛けをみんなやってました。

天正遣欧少年使節の栄光と最期 まとめ

島原の乱といい、天正遣欧少年使節といい、時代が悪い、タイミングが悪いとしか言いようのない出来事ばかりでやるせないなという気持ちです。

時代に抗っても流れに乗っても彼らの未来はなかったと思うと、ホントしんどいですね。

せめて3人は信仰を貫けたのが良かったのかなと思いました。

千々石ミゲルも棄教したのは理由があってのことでしょうし、仕方ない。

余談ですが、舞台「マルガリータ〜戦国の天使たち〜」は「マルガリ~タ~」みたいな歌が特徴的です。

天正遣欧少年使節についての舞台ですので、参考にはなる…かもしれない。

(正直に言うとあまり面白くはなかった。個人の意見です)

機会があればぜひ。

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