鬼丸国綱の由来と来歴をサクッと解説。
鬼丸は面白い逸話のある刀ですが、その後は忌避されたりとこれまた変わった過去を持っています。
日本人の「縁起を担ぐ」といった影響を強く受けた刀ではないでしょうか。
太刀 鬼丸国綱(おにまるくにつな)
号 | 名物 鬼丸 |
銘 | 国綱 |
指定 | ー |
種類 | 太刀 |
時代 | 鎌倉時代 |
刀工 | 山城国(京都)・粟田口国綱(林藤六郎) |
寸法 | 刃長約78.2 cm 反り3.2 cm |
所蔵 | 御物(皇室) |
鬼丸国綱は日本刀の中でも名刀と言われる、天下五剣の一振りです。
童子切安綱・鬼丸国綱・三日月宗近・大典太光世・数珠丸恒次がそれにあたります。
粟田口国綱
粟田口6兄弟の末弟であり御番鍛冶を務めるほどの腕の持ち主です。
鎌倉時代、刀剣をこよなく愛していた後鳥羽上皇は、腕の良い刀工を集め作刀に当たらせました。
御番鍛冶とは、1か月ごとの当番制で鍛刀を行うことです。
文化財指定を受けていない?
天下五剣の一振りである鬼丸国綱は、御物であるため文化財指定は受けていません。
文化財指定はいわゆる「国民の財産」という認識があり、御物はその認識が薄いためと言われています。
しかし文化財としての価値が薄いわけではありません。
鬼丸国綱 名前の由来
鬼丸の名前の由来は「太平記」に記載されています。
北条時頼(時政の説もあり)が毎晩夢の中で子鬼に苦しめられ、病気になった時のことです。
ある夜、夢の中におじいさんが現れ、時頼にこう告げます。
「自分は粟田口国綱の刀の化身である。汚れた手に触れられたことにより錆びつき、鞘から抜け出せない。妖怪を退治するために清浄な人の手で錆を取ってほしい」
時頼はさっそく身を清めた者に刀の手入れをさせ、その太刀を抜き身のまま立てかけておきます。
すると太刀が倒れ、近くにあった火鉢の足を切りました。
その足は銀製の鬼の形をしていたそうです。
これ以降、子鬼は夢に現れなくなり、時頼の病気も回復しました。
このような逸話から「鬼丸」と名付けられました。
太平記とは
室町時代に成立した全40巻の古典文学で内容は軍事物語。
南北朝時代の約50年間を描いている。
筆者は10人以上に渡る。
題名は平和を願ってつけられたものだという。
北条時頼ってだれ?
鎌倉幕府第5代執権。質素かつ堅実で宗教にも厚い名君と言われる。
鬼丸の逸話に出てくるもうひとつの説である北条時政は、鎌倉幕府の初代執権であり北条政子の父。
鬼丸国綱の来歴
北条家が国綱に打たせる | |
1333年 | 14代執権北条高時自刃後、新田義貞へ |
1338年頃 | 斯波高経を経て足利家へ |
ー | 足利義昭から織田信長へ ※信長ではなく直接秀吉へ送られた諸説あり |
ー | 豊臣秀吉が本阿弥光徳へ預ける |
大坂の陣後 | 徳川家のものになるが本阿弥光徳へ預けたまま |
明治時代 | 本阿弥家が新政府へ届け出、明治天皇へ献上される |
現在 | 皇室 御物 |
本阿弥家へ預けられた理由
これまで鬼丸を所持してきた家が滅びていることから「不吉な太刀」といわれ鬼門とされた説があります。
その後、後水尾天皇に皇太子が誕生したとき御所に献上されましたが、皇太子が亡くなったため、またもや「不吉な太刀」として差し戻された経緯があります。
本阿弥光徳(ほんあみこうとく)ってだれ?
刀剣の鑑定や研磨を行う本阿弥宗家の第9代目。
刀剣男士 鬼丸国綱
行動や言葉から逸話や来歴の影響を強く受けている様子がうかがえます。
刀剣男士としての姿も鬼っぽいですね。
天下五剣っぷりがあまり感じられない。余裕がない感じ。
鬼を斬るしか言わない。自分の役割を果たそうとしているのかな。
使命感とも言えるし、自分の存在意義を鬼を倒すことに見出そうとしているようにも見える。
いや、鬼に囚われているかのようにも…。
持ち主たちから遠ざけられ、ずっと預けられていたからひねくれもするよね、そりゃ。
縁起を重要視する大きい家の持ち主ばかりだと仕方がない気もしますが。
粟田口のみんなは鬼丸に親近感を持ってる感じだね。天下五剣たちも。
なんだかんだ言いながらそれなりに仲良くしている様子。
長く一緒にいると審神者にデレてくるところがかわいいな。(6周年セリフ)
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