2021年1~6月、舞台刀剣乱舞の出陣先は大阪の陣ですね。
前半が冬の陣、後半は夏の陣となっています。
本記事は、前半の「大坂冬の陣」の歴史についてまとめました。
忙しい人のための大坂冬の陣まとめです
今までの刀ステを見てもお分かりのとおり、歴史がうまく話に絡んでおり迷子になることはないと思われます。
なので、流れだけ把握しておくといいかもです。
歴史初心者にも分かりやすく、今回の舞台のポイントになりそうなところをピックアップしています。
読むのが面倒くさい人は、目次からラストのポイントまとめまで飛んでください。
舞台刀剣乱舞 天伝 大坂冬の陣 登場人物
刀剣男士
今作でキーポイントになりそうな部分を主にご紹介。
刀剣男士 | キャスト | 詳細 |
---|---|---|
山姥切国広 | 荒牧慶彦 | 安土桃山時代の刀工、堀川国広作。 南北朝時代の備前長船作の「本作長義」の写しだが全体の姿は似ていない。 |
一期一振 | 本田礼生 | 鎌倉時代中期の刀工、山城国の粟田口吉光作。 皇室の私物財産にあたる御物。 豊臣家所有だったが、大坂夏の陣で焼身となり再刃され名古屋城にて保管。 幕末に尾張藩主、徳川茂徳から考明天皇に献上され、御物として相続される。 |
鯰尾藤四郎 | 前嶋曜 | 鎌倉時代中期の刀工、山城国の粟田口吉光作。 豊臣秀吉から秀頼へと受け継がれ、秀頼が気に入っていた刀である。 大坂夏の陣で焼刃となり、焼き直しをして徳川家所有になる。 |
骨喰藤四郎 | 北川尚弥 | 鎌倉時代中期の刀工、山城国の粟田口吉光作。 足利将軍家→大友宗麟→豊臣家→徳川家と所有が移る。 大坂夏の陣にて堀から無傷で見つかる。 明歴の大火にて焼刀。焼き直しをされる。 |
宗三左文字 | 佐々木喜英 | 南北朝時代、筑前国博多の左文字派の刀工作。 名前の「宗三」は持ち主の名前から。 信長の愛刀。 三好政長(宗三)→武田信虎→今川義元→織田信長→ 豊臣秀吉(秀頼)→徳川家康と所有が移る。 明暦の大火にて焼身となったが再刃された。 |
加州清光 | 松田凌 | 加賀の刀工、六代目清光作。「加州金沢住藤原清光」が正式名称。 新選組一番隊組長、沖田総司や東條英機の所有で有名。 |
太閤左文字 | 北乃颯希 | 南北朝時代、筑前国博多の左文字派の刀工作。 名前の由来は豊臣秀吉(太閤)から。 豊臣秀吉から徳川家康に贈られる。 |
豊臣軍
人物 | キャスト | 詳細 |
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豊臣秀吉 とよとみひでよし | 天下人、太閤と呼ばれる。1598年に逝去。 | |
豊臣秀頼 とよとみひでより | 小松準弥 | 大坂の陣の中心人物。豊臣秀吉の三男。 |
千姫 せんひめ | 秀頼の正室。徳川秀忠の娘(家康の孫) | |
淀殿(茶々) よどどの | 秀吉の側室で秀頼の母親。織田信長の妹である市の娘。 徳川秀忠に嫁いだ崇源院とは姉妹。 | |
大野治長 おおのはるなが | 姜暢雄 | 真田信繁とは旧知の間柄。治長の母は淀殿の乳母で淀殿とは乳兄弟。 豊臣家を主導する立場。 |
真田信繁(幸村) さなだのぶしげ | 鈴木裕樹 | 真田昌幸の次男。真田丸の戦いで一躍有名。 「ひのもといちのつわもの」と称される。 |
淀殿と大野治長は乳兄弟でとても親しい間柄だったとか。
大野治長はイケメン長身だったそうです。
なので淀殿との仲の良さから秀頼の出生を疑う人もいたとか。
(当時のいくつもの史料に大野の名が出てくる)
徳川軍(幕府)
人物 | キャスト | 詳細 |
---|---|---|
徳川家康 とくがわいえやす | 松村雄基 | 江戸幕府を興した人物。征夷大将軍。 |
徳川秀忠 とくがわひでただ | 徳川家康の三男。二代目将軍。 |
大坂冬の陣
1614年(慶長19年)11月~12月に大阪で起こった戦。
徳川軍(幕府)と豊臣軍の戦い。
和議にて終結。
大坂の陣前後の時代背景
毛利輝元は豊臣中心の政治を続けようし、徳川家康は自らが政治の主導権を握ろうとしたため対立。
豊臣内部政争勃発。
毛利輝元率いる西軍vs徳川家康率いる東軍。
わずか1日で東軍の徳川家康の勝利。
この戦いで西軍の領地は没収。
東軍の褒章として徳川家とのつながりがある大名家を取り立て、徳川家支配の基礎を作る。
これにより豊臣家の領地は1/4に。
豊臣家はただの一大名となり、家康は天下統一に向けて歩みはじめる。
徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。
東は徳川家、西は豊臣家と、日本は2大勢力で分かたれることになる。
徳川家康は孫の千姫を豊臣秀頼に嫁がせ、豊臣家と絆を結ぼうとする。
家康はわずか2年で将軍職を三男の徳川秀忠に譲る。
豊臣秀頼は右大臣に就任。
豊臣秀頼は徳川家康より先に礼を行い、自分が下の立場をとる。
世間に徳川家が豊臣家より上の立場であることを知らしめることになった出来事。
この頃、豊臣家は秀吉時代の家臣が次々と死去。
豊臣家で実権を握った淀殿が徳川家に反発。
幕府に従うことを拒否する。
豊臣家はますます孤立を深めることになっていく。
味方についてくれる大名もいなくなる。
世論は徳川の天下となり、諸大名は徳川幕府の臣下となっていた。
豊臣家は秀吉が遺した財宝で浪人や武器を集め、戦の準備を進める。
徳川家も表面上は融和の姿勢を保ちつつ、水面下では戦いの準備を行っていく。
秀頼が方広寺に寄付した釣鐘の文字「国家安康」「君臣豊楽」が事件の原因に。
木津川口の砦において戦闘開始。
豊臣軍の砦がいくつも陥落。
真田信繁率いる真田隊が奮闘。
豊臣軍の勝利。
昼夜を問わず砲撃を受ける大阪城。
和議を結ぶ。
こののち大阪城の掘りが埋められる。
豊臣を立てつつ徐々に立場を逆転していく家康は、さすが狸オヤジという他ありません。
もとは君主であった豊臣家を滅亡にまで追い込んだのは、家康の完全な天下統一への障害、もしくは脅威だったからでしょうかね。
開戦のきっかけは方広寺鐘銘事件
豊臣家が秀吉の供養のために再建した方広寺。
その釣鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」(こっかあんこう くんしんほうらく)という文字がある。
「国家安康」国が平定し、治まっている
「君臣豊楽」君主から家臣まで暮らしを豊かに楽しむ
徳川家はこれに対し家康の名前を分け、徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を願ったといいがかりをつけた。
徳川家は秀頼か淀殿が江戸に移住するか大阪城を出るようにと要求。
豊臣家はこれを拒否し、徳川家に反発。
ここで両家の亀裂が決定的なものとなり、冬の陣開戦のきっかけとなる。
釣鐘の行方は?
対立の原因になった釣鐘は現在も潰されることなく残っている。
実はこの事件、いいがかりとは言えない説もある。
「国家安康」「君臣豊楽」の文を作った禅僧が、意図的に「家康」「豊臣」を織り込んだと明言している。
しかしこの時代、本名は忌み名とされ、本名を呼んだり文に織り込むことは失礼に当たる行為だった。
当然この文も失礼に当たり、徳川家の怒りを買うのも当然といえる。
ちなみに家康は「内府様」、秀吉は「太閤様」と呼ばれていた。
豊臣軍は敗北続き
開戦から10日余りで数か所の砦が陥落し、豊臣軍は早々に大阪城に立てこもることとなる。
なぜこのようなことになったのか。以下の説がある。
- 秀頼にとっては初めての戦だった。相手の家康は戦いに長けた武将である
- 兵士が浪人を金で雇っただけの烏合の衆でしかなかった
- 味方をしてくれる大名がおらず、指揮官が不足していた
秀頼は秀吉が57歳の時に生まれたそうです。
秀吉逝去の時、秀頼は5歳。
戦いのノウハウを父から学べなかったのは秀頼にとっては痛手ですね。
真田丸の戦い
真田丸とは、大阪城の南方、守りが弱い場所に築いた出城のことである。
真田信繁(幸村)率いる真田隊がここで戦った。
真田信繁は徳川軍を真田丸に引き寄せ、鉄砲隊にて攻撃。
徳川軍は大ダメージを受け一時退却、真田隊は徳川軍を退けることに成功する。
大河ドラマにもなった真田丸です。
大坂の陣の戦いのひとつでありながらこれだけ有名ということは、当時の活躍はかなりのものだったでしょうね。
しかし、真田丸は冬の陣の和議の条件で破壊されてしまい、正確な位置は不明のままです。(諸説あります)
信繁の愛槍「大千鳥十文字槍」はこちらから。
信繁の脇差「泛塵(はんじん)」はこちらから。
徳川軍による砲撃
籠城作戦に出た大阪城に徳川軍は昼夜問わず砲撃を開始する。
轟音と地響きで大阪城内では不眠と心労が積み重なっていく。
これは家康の心理作戦だったとも言われている。
徳川軍は豊臣軍の2倍の兵力と大砲で大阪城を攻めるものの、堅牢な大阪城は簡単には落とせず、事態は膠着状態に。
籠城をしている豊臣軍は心身ともに疲労は限界に達していた。
徳川軍も寒さと兵糧不足に陥り、和議交渉を行うこととなる。
和議によりひとまず終結
徳川家康の申し入れにより和議が結ばれ、冬の陣は一応の決着を見せる。
しかしこの時結んだ和議の条件が、のちの大坂夏の陣での豊臣軍の命運を決定付けるものになる。
和議の条件のひとつは「大阪城の掘りを埋める」というもの。
二の丸と三の丸の掘りを埋める条件だったが、家康はこの約束を破り本丸の掘りまで埋めてしまいます。
これにより、堅牢だった大阪城は丸裸に。
大坂冬の陣 ポイントまとめ
大坂冬の陣の大事なポイントをまとめていきます。
- 徳川家(幕府)vs 豊臣家
- 豊臣家が幕府に従うことを拒否
- 方広寺の釣鐘の文が開戦のきっかけ
- 豊臣軍は敗北続きで早々に大阪城に籠城
- 真田丸の戦いは豊臣軍の勝利
- 徳川軍による砲撃でも持ちこたえる防御力の大阪城
- 家康より和議の申し入れ
- 和議の条件で大阪城は堀を埋められ、防御力ゼロに
まとめちゃうと理解しやすいと思います。
歴史といえど人が関わる以上、そこには色々なドラマがあります。
これが非常に興味深く、面白いところだなと感じます。
調べていて思ったこと
刀ステの動画の件ですが、冬の陣は青、夏の陣は赤の陣幕でした。
もしかして冬の陣は豊臣の話、夏の陣は真田の話ではないかと思いました。
真田の赤備え(武具や旗が赤や朱色)が有名だったり、真田信繁が死去したのが夏の陣だったという理由なのですが。
夏の陣のまとめはこちら。
豊臣秀吉の愛刀「太閤左文字」はこちらから。
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