大坂夏の陣の歴史 豊臣滅亡と高台院 刀ステ 舞台刀剣乱舞

刀ステ 夏の陣

大坂冬の陣に続き、大坂夏の陣の歴史についてまとめました。

今回は夏の陣のできごと、真田信繁、高台院にクローズアップしています。

ひつじ先生

今回も時系列に沿ってまとめました
刀ステの登場人物から推測してエピソードをピックアップしています

うさこ

人物が多くて把握するのが大変だ

目次

大坂夏の陣 登場人物

夏の陣のキービジュアルにも使われている躑躅(つつじ)

刀剣男士

今作でキーポイントになりそうな部分だけをピックアップしています。

スクロールできます
刀剣男士キャスト詳細
三日月宗近鈴木拡樹平安時代の刀工、三条宗近の作。
名前の由来はうちのけ(刃文の一種)が多いことから。

江戸時代以前の所有者については諸説あるので省略。
(舞台刀剣乱舞「悲伝」では足利義輝の所有であった)

確実な所有歴は豊臣秀吉の正室・高台院から。

彼女の死後は徳川秀忠に贈られる。
鶴丸国永染谷俊之平安時代の刀工、国永の作。

皇室の御物。

仙台藩主である伊達家に代々伝わる。
その後14代藩主より皇室へ献上される。
数珠丸恒次高本学鎌倉時代の刀工、青江恒次の作。

日蓮が護身用として所持していた刀。

柄に数珠を巻いていたことからこの名がつけられた。
骨喰藤四郎三津谷亮鎌倉時代の刀工、粟田口派の藤四郎吉光の作。

足利将軍家→大友宗麟→豊臣家→徳川家と所有が移る。

大坂夏の陣にて堀から無傷で見つかる。

明歴の大火にて焼刀。焼き直しをされる。
薬研藤四郎北村涼鎌倉時代の刀工、粟田口派の藤四郎吉光の作。

薬研(薬剤をすりつぶす道具)を貫いたことが名前の由来。

足利義満、畠山政長が有名な所有者。

その後松永久秀(足利将軍家)から織田信長に渡った後、本能寺の変にて焼失。

もう一つの説は、信長から豊臣秀吉、その子秀頼に渡り、
二条城会見の際(冬の陣の少し前)に秀頼から家康へ贈られたという説。
へし切長谷部和田雅成南北朝時代の刀工、長谷部国重の作。

名前の由来は信長が無礼を働いた茶坊主を、棚ごと圧し切ったから。

信長から黒田長政に下賜される。

これ以降、福岡藩主黒田家に代々伝えられる。
大千鳥十文字槍近藤頌利真田信繁の朱槍。

大坂夏の陣まで信繁が使用。

穂先のみ現存するといわれる。
泛塵熊谷魁人室町時代の刀工、宇多国次の作。

真田信繁の脇差。

信繁の死後、高野山にあり、幕末には紀州藩士の野呂某が所蔵。

今回のエピソードで気になる点は2つ

高台院と三日月宗近。

真田十勇士・大千鳥十文字槍・泛塵。

豊臣家

人物キャスト詳細
豊臣秀吉
とよとみ ひでよし
天下人、太閤と呼ばれる。1598年に死去。
高台院(ねね)
こうだいいん
一路真輝秀吉の正室。北政所とも呼ばれる。

非常に人望があり、大坂の陣では幕府に監視をつけられる。

三日月宗近の所有者。
豊臣秀頼
とよとみ ひでより
小松準弥大坂の陣の中心人物。豊臣秀吉の三男。
淀殿(茶々)
よどどの
秀吉の側室で秀頼の母親。織田信長の妹である市の娘。

徳川秀忠に嫁いだ崇源院とは姉妹。
大野治長
おおの はるなが
真田信繁とは旧知の間柄 治長の母は淀殿の乳母で淀殿とは乳兄弟。

豊臣家を主導する立場。
真田信繁(幸村)
さなだ のぶしげ
真田昌幸の次男。真田丸の戦いで一躍有名に。

「ひのもといちのつわもの」と称される。

真田十勇士

真田十勇士とは、真田信繁に仕えた10人の武士のことです。

一般的には創作であり、架空の人物と言われています。

色々な作品に登場しており、そのために設定は話によってさまざまです。

人物キャスト詳細
猿飛佐助
さるとび さすけ
風間由次郎実在のモデルあり。

真田十勇士の筆頭で忍者。
霧隠才蔵
きりがくれ さいぞう
河合龍之介伊賀の忍者である百地三大夫の弟子。

猿飛佐助とは兄弟分。
穴山小助
あなやま こすけ
牧田哲也真田信繁の複数いる影武者のリーダー。

博打と槍の名手。
三好清海入道
みよし せいかいにゅうどう
坂口修一実在のモデルあり(三好政康)

伊三入道とは兄弟。
信繁に付き従った豪傑。
三好伊三入道
みよし いさにゅうどう
竹村晋太朗実在のモデルあり(三好政勝)

清海入道の弟で豪傑。
海野六郎
うんの ろくろう
高田淳実在のモデルあり。

信繁の参謀で頭脳明晰。
由利鎌之助
ゆり かまのすけ
行澤孝同名のモデルあり(由利鎌之介)

鎖鎌と槍の達人。
筧十蔵
かけい じゅうぞう
久保田創実在のモデルあり(筧十兵衛)

家臣の中では古参。
種子島銃の狙撃手。
望月六郎
もちづき ろくろう
伊藤教人真田忍者の一人。

真田屋敷の留守居役。
爆弾製造が得意。
根津甚八
ねづ じんぱち
星璃実在のモデルあり。

真田信繁の影武者。

大坂夏の陣

1615年(慶長20年)4月~5月(大阪城での戦いは5月6日~8日)に起こった戦。

大阪城は落城、5月8日に淀殿と秀頼が自害し、豊臣家は滅亡する。

冬の陣から夏の陣へ

冬の陣から夏の陣へ至るまでにも、様々な出来事があります。

徳川軍豊臣軍真田信繁)の動きを見ていきましょう。

1614年12月19日 大坂冬の陣終結

和議を結ぶ。

こののち大阪城の掘りが埋められる。

1615年3月15日 

大坂方(豊臣家)に不穏な動きがあると家康に報告。
浪人は大阪に残り、塀などの修復や大阪城の埋められた堀を掘り返していた。
そのことや、京や伏見に放火したという噂を報告した。

1615年4月4日

3月の報告を受けて、家康豊臣秀頼に大阪城を出るか浪人を解雇するよう要求。

翌日、秀頼は使者を通じて大阪城を出ることを拒否。

家康は「なら仕方がない」と答え、戦いのため諸大名を京都に集める。

1615年4月9日 大野治長、闇討ちに会う

大野治長が大阪城内の楼門にて闇討ちに会う。

1615年4月19日 徳川家康、大野治長のケガの具合を問う

徳川家康は使者を立てて治長にケガの具合を問う。

この日の前後に家康秀忠は京に入る。

1615年4月26日 大坂夏の陣 緒戦

大和郡山城の戦い。
紀州一揆。
樫井の戦い。

1615年5月6日 大坂夏の陣 開戦

道明寺・誉田の戦い.。真田隊の戦いぶりに伊達政宗も感心したといわれる。
八尾・若江の戦い。

1615年5月7日 大坂夏の陣 決戦

天王寺・岡山の戦い。
大阪城落城。
真田信繁討死。

1615年5月8日 大坂夏の陣 終結

豊臣秀頼淀殿大野治長自害。
豊臣家滅亡。

1615年7月 元号を「慶長」から「元和」へ

「天下平定」を内外に宣言。
徳川家の全国支配がたしかなものとなる。

大野治長の闇討ち事件

犯人は分からずじまいですが、何か怪しい気がしませんか?

治長は豊臣家でも指導者の立場にあり、最重要人物でした。

しれっと怪我の具合を問う家康ですが、これは何かありそうですね。

大坂夏の陣 緒戦

大和郡山城

大和郡山城の戦い

4月26日、大和郡山城を守っていた筒井定慶徳川軍についたことにより、大野治長豊臣軍が侵攻。

筒井定慶は城を捨てて逃げ、大和郡山城は豊臣軍の手に。

豊臣軍は堺(徳川の兵站があった)を焼き討ちする。

紀州一揆・樫井の戦い

豊臣軍は紀州一揆勢に乗じて紀州を侵攻しようとするが、先鋒が討死し失敗。

この後、大野治長ら豊臣軍は5月6日まで攻防戦を繰り広げるが敗戦。

大坂夏の陣 開戦

5月6日に2か所で行われた合戦。

道明寺・誉田の戦い

道明寺で豊臣軍を破り、伊達隊が進撃。

真田隊の反撃で伊達隊を道明寺まで押し戻すが、大阪城から退却命令が出る。

撤退する真田隊を前に、伊達隊や徳川軍は追撃をしなかった。

(弾薬が尽きたとも、伊達正宗が信繁の戦いに感心したからだとも言われている)

この時信繁は「男はひとりもおらぬのか」と言い、悠々と退却したという。

八尾・若江の戦い

徳川軍が優勢、豊臣軍は大阪城付近まで追いつめられる。

大阪夏の陣 決戦

5月7日。真田信繁が討死、大阪城が落城することに。

天王寺・岡山の戦い

真田信繁の捨て身の特攻で、家康の本陣は恐ろしさのあまり家康を見捨てて逃げ出す。


家康を打ち取るまであと一歩というところまで追いつめる。

この時、大阪城から火の手が上がったことで徳川軍は体勢を立て直し反撃を開始。

真田隊は分断され戦闘能力を失い、退却を余儀なくされる。

退却途中の安居神社で疲労のあまり動けなくなった信繁は、徳川軍に討ち取られる。

大野治長は豊臣秀頼に出陣をうながすために大阪城へ戻る。

しかし治長が持っていた馬印(大将の目印)を見た城内の兵士は、治長が逃げ帰ってきたと勘違い。

さらに大阪城から火の手が上がったため、大混乱に。

外部で戦っていた豊臣軍は徳川軍の兵力の前に壊滅状態となり、大阪城へ退却した。

この機に乗じて、家康は軍を一気に大阪城へ侵攻させる。

堀を埋められていた大阪城にこれを防ぐ手はなく、あっという間に落城してしまう。

大坂夏の陣 終結

5月8日。助け出された千姫(豊臣秀頼の正室で家康の孫)の助命もかなわず、秀頼と淀殿は蔵の中で自害。

大野治長も自害したといわれる。

大坂夏の陣 豊臣軍の真田隊 真田信繁とは?

真田信繁が討ち取られた安居神社

真田信繁といってもピンと来ないかもしれませんが、真田幸村と言えばご存知の方も多いのではないでしょうか。

様々な戦国ゲームでも必ず取り上げられ、イメージカラーは赤。

勇猛果敢な武士として現在も人気がある武将のひとりです。

信繁の最後の戦こそ大坂夏の陣であり、最期の時まで立派な武士でした。

真田信繁と言えばこのアイテム

  • 真田の赤備え

    備えとは、武具を統一すること。

    信繁の軍は鎧を赤で統一しており、家康を追い詰めた武勇伝から、赤備えは誉れの象徴になったそう。
  • 六文銭

    真田の旗印は六文銭。

    六文銭は三途の川の渡し賃で、「不惜身命」(仏のためには身命をささげて惜しまないこと)を意味します。

信繁の人となり

  • 真田丸

    冬の陣でも触れましたが、大阪城の守りの弱い土地に真田丸を築き、徳川軍を迎え撃ちました。

    (大野治長や他の豊臣の臣下は、「真田丸は信繁が徳川に寝返るための準備」だと思っていたようです)

    これが「ひのもといちのつわもの」と信繁を天下に知らしめる出来事となりました。
  • 正宗に家族を託す

    5月6日、誉田で戦った伊達隊の伊達政宗と片倉重綱を敵ながら信頼できると確信し、自分の子供数人を片倉重綱の陣に送りました。

    片倉は子供たちをすぐに保護し、大阪夏の陣後、片倉家にかくまわれた子供たちは無事生きのびることができました。

    (あくまで一説であり、生け捕りにされた説もあります)

    信繁の三女阿梅はのちに重綱の妻になっています。
  • 穏やかで物静かな性格

    義兄や姉に送った手紙を見れば、勇猛な武将にもかかわらず優しい性格であったことがうかがえます。

わらべ歌と影武者

「花のようなる秀頼さまを
 鬼のようなる真田がつれて
 退きも退いたり鹿児島へ」

大坂の陣の後に流行したわらべ歌です。

秀頼は蔵で自刃したという話ですが、実際は秀頼の遺体がどれか判明しなかったようで、真相は闇のまま。

粟田口吉光の近くの遺体がそうであろうと結論を出したにすぎません。

また、真田の首はたくさんありすぎて、家康が決めきれなかったという説があります。

真田信繁は影武者をたくさん立てていたため、信繁の首がたくさん集まり、結局こちらも本当の信繁の首は分からずじまい。

このようなことが理由で、もしかしたら2人は生きているのではないかと噂され、わらべ歌が流行ったと言われています。

信繁の愛槍「大千鳥十文字槍」はこちらからどうぞ。

信繁の脇差「泛塵(はんじん)」はこちらです。

豊臣秀吉の正室 ねね(高台院)

高台寺の参道

秀吉とねねは恋愛結婚

高台院・通称ねねは尾張の浅野家に生まれました。

当時、織田信長の家臣だった豊臣秀吉と恋愛結婚をしますが、浅野家は身分の低い秀吉との結婚を反対されていたようです。

後の戦国武将を育てる

秀吉とねねは仲のいい夫婦でしたが世継ぎに恵まれませんでした。

ねねは豊臣家の親族や縁のある子どもを育てます。

武将として有名な加藤清正や福島正則、石田三成や黒田長政(黒田官兵衛の子)もねねが育てており、実の母親のように慕われていました。

黒田官兵衛は秀吉に仕えており、人質として松寿丸(黒田長政の幼名)を秀吉・ねね夫婦に預け、我が子のようにかわいがられています。

このことが、後のねねの人望や発言力の大きさにつながっていきます。

北政所と呼ばれる

本能寺の変ののち、大坂城に移り住んだ秀吉が関白になるに伴い、ねねは北政所(きたのまんどころ)と呼ばれるように。

1588年、秀吉の邸宅・聚楽第(じゅらくだい)に行幸した後陽成天皇(ごようぜいいてんのう)は、ねねの采配で万事がうまく運んだ功績として「従一位」(じゅういちい)を与えました。

「従一位」は「正一位」の次の位であり、女性では最高の位とされています。

三日月宗近とねね

ねねが三日月宗近を所有していたことは確実ですが、誰から送られたのでしょうか。

夫であり、無類の刀剣好きの秀吉から贈られたようです。

1593年に秀吉と側室・淀殿との間に世継ぎの秀頼が生まれたころ、譲り受けたと推測されています。

秀吉の没後

1598年に秀吉が没した翌年、大坂城を出たねねは京都新城(きょうとしんじょう)へ移り住みます。

1600年、徳川家康が天下取りに動き出し、関ヶ原の戦いが起こります。

関ヶ原の戦いの時、加藤清正や福島正則はどうすればいよいかと、育ての母のねねを訪ねてきたといいます。

ねねが慕われていたことがうかがえるエピソードであり、実際に影響力・発言力も大きかったようです。

出家し高台院に

1603年、豊臣秀頼と千姫の婚礼を見届けたねねは仏門に入り、「高台院湖月心尼」(こうだいいんこげつしんに)と称するようになります。

1605年、秀吉を弔うため高台寺(こうだいじ)を建立。その門前に屋敷を構えそこで過ごしました。

大坂の夏の陣とねね

1615年、大坂夏の陣では江戸幕府により監視が付けられ、なにもできないまま豊臣の滅亡を見ることになります。

1624年、高台院屋敷にて死去。

遺品として三日月宗近が徳川秀忠に贈られます

数珠丸恒次と日蓮の縁

数珠丸恒次が日蓮の刀であったことは言うまでもありませんが、夏の陣に関わりがあるのでしょうか?

疑問に思って調べてみました。

数珠丸とは直接関係ありませんが、日蓮を通じた不思議な縁があったのでご紹介します。

数珠丸は日蓮の三遺品として身延山(久遠寺)に保管されていましたが、その後行方不明になり、大正時代に入ってから再発見されています。

徳川家康の側室・お万の方は日蓮宗の信者です。養父の影響で改宗し、日蓮宗の僧である日遠(にちおん)を師と仰いでいました。

しかし家康は浄土宗であり、日蓮宗を日ごろから良く思っていなかったようです。

1608年、江戸城で行われる「宗論」(宗派で優劣を争う論争)の直前に日蓮宗を襲わせ、浄土宗が勝利しました。

大怪我をした日蓮宗の僧がまともな論争はできないですよね。

この家康のやり方に抗議するため、日遠は身延山法主(首長)を辞職し、新しく宗論の申し入れをします。

家康は激怒し、日遠を磔に処しようとします。

お万の方は日遠の助命を申し入れますが、聞き入れられません。

そこで、お万の方は「師の日遠が死ぬときは自分も死ぬ」と日遠と自分の死装束を縫い、日遠よりも自分を高く磔にするよう2人の息子を通じて願い入れます。

これにはさすがの家康も驚き、日遠を放免しました。

このお万の方の行動はかなりの話題になったようです。

後陽成天皇までが知ることになり、自ら「南無妙法蓮華経」と書いたものがお万の方に下賜されたそうです。

ここまでの騒動になっていたら、もしかして大坂方(豊臣家)や高台院も知っていたかもしれませんね。

日蓮宗、見延山、後陽成天皇。微妙にリンクしているのがまた歴史の妙でもあり面白さだと思います。

大坂夏の陣 ポイントまとめ

大阪城

繰り返しになりますが、大坂夏の陣の大事なポイントをまとめています。

  • 徳川家康は豊臣秀頼に大阪城を去るように要求、秀頼はこれを拒否
    (家康は豊臣を滅ぼすことを決意)
  • 大野治長が闇討ちに会う
  • 真田信繁の奮戦と討死
  • 掘りを埋められた丸裸の大阪城は、夏の陣開戦からわずか3日で落城
  • 豊臣秀頼と淀殿は自害
  • 高台院は幕府の監視があり夏の陣では動くことができず、豊臣の滅亡を見ているしかなかった

冬の陣からわずか半年、あっという間の出来事です。

天下統一を目指す家康にとって、大阪で力のあった豊臣家が邪魔だったのは言うまでもありませんが、それにしても決断が早いですよね。

天下人はこの決断力が大事なのかもしれません。

豊臣秀頼はこの合戦で出陣をしなかったようです。

ひ弱で意気地がないとも取れますし、誰にも屈することなく最後まで豊臣を守ったとも言えます。

高台院はどんな気持ちで豊臣の滅亡を見たのでしょうか?

もし夏の陣で大坂城へ駆けつけていたら歴史が違っていたかもしれませんね。

このあたりが夏の陣の話のポイントになりそうです。

歴史の醍醐味はいろいろな解釈ができるところにあると思います。

刀(刀剣男士)の来歴も調べれば調べるほど諸説あるものが多く、どの説が採用されるかでその刀の印象が変わってきそうです。

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